
前回ご紹介しました
栄福寺の近くにお遍路さんにもとても人気のある
武田屋さんというお饅頭屋さんがあります。
黒糖で作った餡子を黄色い卵と小麦粉だけで作った生地に包んでいます。
シンプルなお饅頭ですが、手作りでとてもとても上品な味です。
八幡山から名前を取ったのだと思いますが「
八幡饅頭」と言います。

お店の前にはお遍路さんが休めるようにテーブルなどが置かれていて、お饅頭はもちろんのことコーヒーやお茶も飲めるようになっています。

これや看板にあるように、戦国武将の甲斐の
武田信玄公と同じ
武田菱の家紋が使われています。
そこで、どうしても気になり甲斐の
武田家との繋がりを以前に聞きに行ったことがありました。
その時に教えていただいたのは、今の姓は結婚などで変わってしまい
武田ではないですが以前は
武田姓だったこと、本家は朝倉にありこちらは分家なので詳しい事は本家に聞いてほしいとの事でした。
甲斐の
武田家の末裔か?と言う事にははっきりとは分かりませんがそのようなことを聞いたことがあるとの答えでした。
実は、今治市朝倉と西条市の境に竜門山(りゅうもんざん)というのがあります。
昔、その頂上に龍門山城というお城がありました。
そこの城主が
武田信勝公でした。
天正十年(1582年)12月8日、小雨まじりで風の強い日に、白馬に乗った来島城主・来島通康の軍勢、四、五十騎が朝倉村浅地の長円寺谷にせめてきました。
敵軍は、ここに馬を置き、龍門山城へ攻め登り、城へ火をかけました。
不意を打たれ、急のことであったので、城の中は混乱をきわめ、散々の体で逃げ惑う始末、城主近江守
武田信勝は、城の北谷にやっていって声をはりあげ「敵は誰か、名は何と申すか、早く名乗れ・・・」と呼ばわりながら奮戦しました。
しかし、多勢に無勢、加えて裸身同様の身、さすが気丈な
信勝公も深手を負い、やむなく城を開け渡しました。
空腹にたえながら落ち延びていたところ、川上から里芋の親頭が流れているのを見つけました。
それを拾って食べ、暫く飢えをしのいだと言う事です。
その後、
信勝公は、周桑郡三芳町黒谷の野辺で百姓に討たれて最期を遂げました。(戦乱で討ち死の説もあります。)
信勝公の末裔は、この信勝の苦しみを忘れないように毎年元旦には、餅を入れた雑煮の代わりに、里芋の親頭を雑煮にして食べているとのことです。
武田信勝公の墓地は朝倉ダム建設で移転され、龍門隧道出口に墓所があります。
墓所には
武田菱の家紋が用いられています。
遡ると、甲斐の
武田氏の流れを汲む
武田宮内少輔信次(安芸金山城城主)に行き着きます。
孫の信保が伊予に渡り、河野通宣に仕え、越智家員の客将となった後、重地呂城の城主に命じられました。
信保から数えて6代目が信重、その弟が
信勝公です。
そして、偶然かもしれませんが、この
信勝公のことは、
武田屋さんのある玉川町八幡の
武田寅吉氏方の「南海道伊予国源姓武田系図」に掲載されています。