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龍門山城跡(竜門山)と朝倉ダム


前回にご紹介した、龍門山城城主、武田信勝公のお墓の近くに朝倉ダムがあります。

すぐ側には龍門山城のあった昔の古戦場であった竜門山があります。



このように朝倉ダムについての説明の石版が建っています。



山奥の静かなダムで、近くには芝生が敷き詰められ、ダムが一望できる場所が設けられています。

近くには、朝倉ダム湖畔緑水公園があり、キャンプやバーベキューができる場所が隣接されています。



この日も多くの家族連れや、子供の声が響いていました。

知られていませんが、市内から少し離れた場所にこんなに自然に恵まれた場所があることは嬉しいことです。




これが、朝倉ダムから見た竜門山になります。

この山にあった龍門山城について簡単ですが説明をさせていただきます。

鎌倉時代・長井斉藤景忠の築城といわれ、戦国時代末期武田氏が居城しました。

天正年間来島氏の来攻に滅亡しています。

櫛部氏も居城としたとの記録もあります。
山頂に石積みや井戸跡の一部が見られるそうです。

戦国末期に多くの血が流れた場所であり、甲斐武田家の末裔である武田信勝公の無念を思うと、お墓参りをさせていただいた後だけに独特な思いがありました。

今、静かなこの場所に立って多くの無念の死を遂げた魂のご冥福を祈り、手を合わせてこの場を後にしました。
# by kyd575 | 2009-11-29 10:44
龍門山城城主 武田信勝公のお墓
前回の八幡饅頭のご紹介で書きましたが、この今治市の朝倉と甲斐の武田家(戦国武将)との間には深い縁がありました。

今回は、朝倉ダムの近くにある武田信勝公のお墓に行ってきました。

朝倉ダムやその近くの龍門山や、武田家にゆかりのある無量寺なども行きましたが、今回は、武田信勝公のお墓参りをご紹介します。

朝倉ダムの手前のトンネルを抜けるとすぐにあります。



このような説明書きの看板があるのですぐに分かります。



その近くには、分かりやすく石に書かれています。



手を洗う水を入れている石でしょうか!
字が彫られていて、古くて味のある雰囲気でした。



遠くから見ると、お墓の前に塀のような囲いがありますが、よく見ると武田家の紋が彫られています。
裏は個人名がたくさん書かれているので写しませんでしたが、全国の武田家の末裔の名前が都道府県別に
びっしりと書かれています。



お墓の前に、前回ご紹介した武田家とご縁のある武田屋さんの八幡饅頭と冷たいお茶とお線香を供えてお参りしてきました。

多くの犠牲者と信勝公の無念を思いながら過酷だったであろう戦国時代に心を合わせ共にいただくつもりでその場で八幡饅頭を一緒にいただきました。

山の中のお墓ですが、手入れが行き届いてとても気持良かった印象でした。

それにしても、朝倉には武田姓が多いなという印象があります。

武田姓の友人が近くに住んでいるので聞いてみました。
その友人は、正真正銘の甲斐の武田家の末裔だそうです。

4年に一度は、本家の人が信州まで参っているそうです。

「ここら辺は武田家が多いですね!」と聞いたら、その友人はお祖母さんから聞いたらしいですが、昔は武田姓を売っていたとのことです。

どれだけの人が本当の武田家の末裔かは今では分からないそうです。

武田信勝公のお墓の写真←こちらをクイックしてください。
# by kyd575 | 2009-08-17 21:22
八幡饅頭(武田屋)さんのご紹介


前回ご紹介しました栄福寺の近くにお遍路さんにもとても人気のある武田屋さんというお饅頭屋さんがあります。


黒糖で作った餡子を黄色い卵と小麦粉だけで作った生地に包んでいます。
シンプルなお饅頭ですが、手作りでとてもとても上品な味です。

八幡山から名前を取ったのだと思いますが「八幡饅頭」と言います。



お店の前にはお遍路さんが休めるようにテーブルなどが置かれていて、お饅頭はもちろんのことコーヒーやお茶も飲めるようになっています。



これや看板にあるように、戦国武将の甲斐の武田信玄公と同じ武田菱の家紋が使われています。

そこで、どうしても気になり甲斐の武田家との繋がりを以前に聞きに行ったことがありました。

その時に教えていただいたのは、今の姓は結婚などで変わってしまい武田ではないですが以前は武田姓だったこと、本家は朝倉にありこちらは分家なので詳しい事は本家に聞いてほしいとの事でした。

甲斐の武田家の末裔か?と言う事にははっきりとは分かりませんがそのようなことを聞いたことがあるとの答えでした。

実は、今治市朝倉と西条市の境に竜門山(りゅうもんざん)というのがあります。

昔、その頂上に龍門山城というお城がありました。

そこの城主が武田信勝公でした。

天正十年(1582年)12月8日、小雨まじりで風の強い日に、白馬に乗った来島城主・来島通康の軍勢、四、五十騎が朝倉村浅地の長円寺谷にせめてきました。

敵軍は、ここに馬を置き、龍門山城へ攻め登り、城へ火をかけました。

不意を打たれ、急のことであったので、城の中は混乱をきわめ、散々の体で逃げ惑う始末、城主近江守武田信勝は、城の北谷にやっていって声をはりあげ「敵は誰か、名は何と申すか、早く名乗れ・・・」と呼ばわりながら奮戦しました。

しかし、多勢に無勢、加えて裸身同様の身、さすが気丈な信勝公も深手を負い、やむなく城を開け渡しました。

空腹にたえながら落ち延びていたところ、川上から里芋の親頭が流れているのを見つけました。

それを拾って食べ、暫く飢えをしのいだと言う事です。

その後、信勝公は、周桑郡三芳町黒谷の野辺で百姓に討たれて最期を遂げました。(戦乱で討ち死の説もあります。)

信勝公の末裔は、この信勝の苦しみを忘れないように毎年元旦には、餅を入れた雑煮の代わりに、里芋の親頭を雑煮にして食べているとのことです。

武田信勝公の墓地は朝倉ダム建設で移転され、龍門隧道出口に墓所があります。

墓所には武田菱の家紋が用いられています。

遡ると、甲斐の武田氏の流れを汲む武田宮内少輔信次(安芸金山城城主)に行き着きます。

孫の信保が伊予に渡り、河野通宣に仕え、越智家員の客将となった後、重地呂城の城主に命じられました。
信保から数えて6代目が信重、その弟が信勝公です。

そして、偶然かもしれませんが、この信勝公のことは、武田屋さんのある玉川町八幡の武田寅吉氏方の「南海道伊予国源姓武田系図」に掲載されています。




# by kyd575 | 2009-07-11 22:22
四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所 栄福寺のご紹介


今回は、前回ご紹介した石清水八幡宮の八幡山の山腹に建つ四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所 栄福寺をご紹介します。

入ると直ぐに何体かのお地蔵さんと大きな弘法大師像が出迎えてくれます。
いかにも霊場という感じです。



少し歩くと左にある優しい顔の「お願い地蔵尊」は、観る度にお顔が違う、といわれる方が多く、お遍路さん地元の方の信仰、親しみを受けています。



分かりにくいですが、手洗い場の水は龍の口から水が出ています。



境内には大きな鐘があり、鳴らすととてもいい音がします。



大きな空海像があります。

弘法大師がこの地を巡錫した折、近辺の海で海難事故が多いことを知り、海神供養の護摩供を修しました。

その満願の日、海中より阿弥陀如来が現れたので、府頭山(八幡山)に一宇を建立して安置したのが始まりとされています。

後、嵯峨天皇の勅願寺となったといいます。

元は長福寺と称し、寛政4年(1792)に栄福寺と改めました。

江戸時代までは石清水八幡宮が札所で、栄福寺が別当として祭祀や納経を司っていました。

明治の神仏分離により栄福寺は独立、札所を引き継ぎ、山麓の現在地に移ったとのことです。



左側が小さな薬師堂です。

毎年、近所の子供達が夏に集まり、住職と薬師如来の真言を唱え、菓子などを供える事で、地域の身体健悟と無病を祈願しています。(大師堂でも同様の行事が毎年、行われています。)

昔、薬師堂の前で花見をしていた若者達がふぐを食べて腹痛を起こし、残ったふぐを桜の木の根本に捨てました。

次の日にお寺に来て、桜の木が枯れているのを見つけました。
これは薬師が身代わりになったと考えられている。

それ以来、病気封じにお薬師さんにあげられた線香の灰を持ち帰る人が後を絶たないといわれます。

その隣にあるのは「金比羅堂」です。



隣の売店でお土産に手ぬぐいを買いました。

長寿お守り手ぬぐい、88歳の方が書いた般若心経(字を読めない、書けない方にも解るように絵で書かれています)



大師堂

本堂と回廊で結ばれている大師堂は、本堂よりも古く、以前は山頂にあった建物の唯一の名残のお堂です。

建物の外周に施された12支の干支の彫刻は一見の価値があります。

正面には玉をくわえた龍が睨みつけるようにこちらを見ており、側面には虎などが彫られています。

羊だけ姿が見えないが、実は隠し彫りされているそうです。



大師堂の前にはたくさんのお地蔵さんが置かれていますが、その中で一番のお気に入りがこの「田の神さま」なのですが、今回、新しいエプロンがされていました。

エプロンの下の茶碗としゃもじを持った姿がいいのですが今回写せませんでした。



こちらが本堂になります。

阿弥陀如来様が奉られています。

弘法大師が海難供養の護摩供をしたことから、海陸安全、福寿増長に御利益があるとされています。

寺には寛政年間(1789~1801)の納経帳が残っています。
九州からの遍路で当時は3ヶ月かけて88ヶ所を巡っていたとのこと

御詠歌

この世には弓矢を守る八幡(やはた)なり、来世は人を救う弥陀仏(みだぶつ)」


 大意:今の世の中には戦いの神の八幡神がいらっしゃる。
 しかし来世には人を救う阿弥陀如来になほるど、仏教の修行をしよう。



本堂に置かれている箱車、松葉杖、コルセットは、昭和8年(1933)に参拝した足の不自由な15歳の宮本武正さん(少年遍路)が使っていたものです。

栄福寺に参拝したとき、車を引いていた犬に引っ張られて本堂から転倒。

体をしたたかに打ち付けてしまいましたが、なぜかそのお陰でそれまで立たなかった足腰がすっかり治り、箱車を奉納して遍路を続けたといいます。

この話にあやかってか、薬師堂で線香の灰をもらい、病気平癒の祈願をする人も多いそうです。

他にも写真を写しています。

2回クイックしていただければ大きな画像で見ることができます。

こちらからお入りください。 栄福寺ヤフーフォト










# by kyd575 | 2009-07-08 22:32
石清水八幡神社(今治市)を尋ねる


自転車で移動していると車では気付かない山の上の神社が見えることがあります。

今回は、清水小学校近くの山の中に神社のようなものがあるのを見て行ってみることにしました。

それが、今治市に古くからある石清水八幡神社でした。

今回は東側から上がる事にしました。



いつもどおり暗い山の石の階段を上がります。
行き慣れていたらそうでもないかもしれませんが、初めての場合はとても長い階段に感じます。

やっと頂上まで来たと思ったら、とても見晴らしのいい高台でした。



今治平野になります。
高い建物が「今治国際ホテル」になります。
山側から市街地を見るようになります。



遠くて見えにくいですが、来島大橋(しまなみ海道)が遠くに見えます。





石清水八幡神社は、府頭山頂上(地元では八幡山~はちまんさん~と呼ばれています)にありました。

石清水八幡神社(元社)の由来は

貞観元年(859年)のこと、清和天皇は夢に託宣を受けて奈良の大安寺の僧行教と山城守紀御豊を宇佐八幡宮に派遣しました。

すると両人の夢に八幡神が現れ、「自分は都に近い場所へ遷って国家を守ろう。」と告げた。

二人が宇佐を発して大山崎まで来たところ、山上に光があったので、住人に「この辺りに神体を遷せる場所があるか」と尋ねると、「山の麓に嵯峨天皇の離宮の跡地があるので、そこがいい」との答えがあった。

行教はその地に赴き、独鈷で地を穿ったところ、石の間から清水が湧き出した。
これが石清水である。

行教と御豊はこの旨を奏聞したところ勅があり、神体を遷して社殿を建てて離宮八幡宮と称した。
その後また行教と御豊に夢告があり、八幡神を男山に遷すよう命じた。

 要するに現在の石清水八幡宮の元社であり、当社から分霊を男山へ遷したとの伝えである。

また、源氏をはじめ、足利氏・徳川氏・今川氏・武田氏など、多くの清和源氏が氏神として信仰したことから武神・弓矢の神・必勝の神として崇敬された。

山崎の地は胡麻油製造で栄えた。
大山崎神人と称し、石清水八幡宮へ供える油を扱うとのことで、各国の関所を自由に通過する権利、減量の胡麻を独占的に買い付ける権利、油を一手に販売する権利を持っていた。

荏胡麻を材料とした油を石清水八幡宮に勤める「大山崎神人(じにん)」が西日本の広範囲で独占的に販売し、地元に富をもたらした。
「山崎の油座」という。

室町時代、油は照明に使われただけでなく、火を燃やしてエネルギーを作るのに活用された貴重品であった。

全国には八幡神社、石清水八幡宮が4万社あると言われています。
これは、稲荷神社に次ぐ多さです。

八幡神は当初より神仏習合の神として成立しました。
伝来の仏教が日本に流布浸透していくには神仏習合が一番良い方法だったと思われます。


江戸時代までは石清水八幡宮(現・石清水八幡神社)が札所で、栄福寺が別当として祭祀や納経を司っていた。
幕末の神仏分離令(神仏判然令)で分離するまで、山頂で共に祀られていました。

貞観3年(861)行教上人が宇佐より八幡大神を奉じて山城の男山(石清水八幡宮)に向かう途中、嵐にあって当地の沖を漂流した。
その時、望見した府頭山の山容が男山に似ていることから、八幡宮を勧請し、神仏習合の霊場となったとされる。
これがこの石清水八幡神社であり、江戸時代までは勝岡八幡とも称した。

石清水八幡神社には、鎌倉時代の御神体3体(有形文化財)が納められています。
ここからは、今冶平野、遠く来島大橋まで見渡すことができます。

このあたりの五十崎の山は四国霊場57番札所 栄福寺までいくつかの宗教施設が密集している霊山のようになっています。
# by kyd575 | 2009-07-03 21:59

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